2018年7月7日災害支援団ゴリラの代表理事、茅野匠の行動から、私たちの活動は動き出しました。
6日の深夜から7日にかけて真備町を襲った豪雨災害。
7日の朝、ニュースやSNSで真備町の様子を知った彼は、自宅近くのキャンプ用品店がオープンすると同時に、カヤックを購入し、真備町へ向かいました。
「1人で何ができるのか?」
不安を抱えながらも、真備へ向かい、海のようになった真備町をカヤックで進み、最初に救助した高齢のご夫婦。2人は、
「10時間以上ここにいます。もう力が入りません。」と
2階のベランダで、膝まで水に浸かったままの2人の手を掴んだ時、
全てが吹っ切れたと言います。
7日、8日と真備町で12名の人達を救うことができ、翌日は家でニュースを見て過ごしていました。
テレビでは真備町のニュースが流れ続けていました。山のように積まれた家財、崩れてしまった家、通れない道路、避難所の状況、自分にまだ何かできることは無いだろうか?
避難所の食事は大丈夫だろうか?胸の鼓動が成りやまず、すぐに友人の吉川を思い出した(現災害支援団Gorilla 相談役)頼れる仲間の1人でした。
彼に電話をし、何とか避難所で炊き出しができないだろうか?と、この日は1日中、このやりとりをしていたように思える。
一夜明け、吉川から電話がかかってきました。
「薗小学校で炊き出しができるようになったけぇ、わぇ(俺)なんもわからんけぇ、何がいるんか教えてや。わぇがみな(全部の意味)そろえるけぇ、なんでも言うてや」
この電話の次に日には、僕たちは薗小学校の中庭でサテライトの準備をしていました。
吉川の友人らと5人くらいだったでしょうか。料理もしたことが無いような30代の屈強な男たちが集まりました。タマネギも切れない吉川は、カットタマネギを大量に買ってきて
「わぇ、包丁とか使えんけぇ、これで料理してや」
そう言って何キロものにんじんやタマネギのカットしたものを買ってきてくれました。
「次から、わしがタマネギ切るけぇもうカット野菜はいらんで(笑)」
こんなやりとりをしながら始まりました。避難所となった体育館へは約300人以上、在所されていたと思います。
暑い夏でした。避難所の体育館の中は、エアコンは数日で設置されたと思います。
本当に暑い夏でした。1日の換気の時間はほんの数十分。
避難所の人たちが食べる食事は、朝はパン(毎日ほぼ同じもの)・おにぎり(賞味期限切間近の物)梅、昆布、昼食もそんな感じだったと思います。
夕食は、某コンビニの冷え切った硬い弁当3種類。
しかし、この例はあくまで避難所が落ち着いてからで、発災当初は、レスキューライス、クッキーやクラッカーだけだったり、おにぎりは1人1個までという状況でした。
その状況を目の当たりにし、言葉が出ませんでした。
ご飯は1回20升を1日3回炊き(多いときは25升)汁物・おかず・付け合わせを約5日間作りました。
僕たち炊き出しスタッフの当初の1日の睡眠時間は約1時間、スタッフが帰った後も、吉川は寝ること無く準備をしていました。
お互いにお互いの体調を気遣っていましたが、僕も吉川も負けず嫌いなのか、最初の2日間は、ほぼ寝ていませんでした。
「えれえなぁ・・・」
「しかし暑ちぃなぁ・・・」
苦笑いしながら、朝も、昼も、夜もご飯を作り続けました。本当に2人とも、疲れ切っていました。
ある日の深夜だったと思います。何かの会話をしていた時に、吉川が僕に言いました
「味は自信ねぇけど、腹一杯くわせちゃりてんよ」
「あったけぇ飯を、腹一杯食べてもらいてんよ」
「あまったら捨てりゃあええんよ。無いです!やこ言えれんけぇ」
ものすごい笑顔でこれを言い放ったことが一番記憶にあります。
そこには、損得や駆け引きや、煩わしい事情なんてものは一切ありませんでした。
ただ、腹一杯飯を食って欲しい
これが炊き出しを行った理由です。
7月10日 発災から3日が経った
ニュースでは真備町の変わり果てた姿が繰り返し流れていた
これまでも避難所(熊本県益城町)での炊き出しの手伝いを経験したことがあったがまさか、自分たちがサテライトを築き16日間もの間、炊き出しを行うとは思ってもいなかった。
それは、沢山の協力していただいた
北海道から沖縄までの友人、知人、仲間のおかげだと思う
その繋がりは、約1年半経った今でもしっかりとあり、くじけそうなとき、どうしようも無く寂しく辛いとき
いつも背中を押してくれている。
僕のできる事と言えば
僕が僕の最後の日まで
沢山の人たちの思いを忘れずに生きていくことだと思う
代表理事 茅野匠
16日間の炊き出し活動後、避難所から外に出て、話しをすることでストレスの発散やコミュニケーションの場となるように、又、炎天下での片付け作業の疲れを癒せるようにと、ゴリラカフェの開設を行いました。
ここでは、子供から年配の方まで気軽に足を運んでもらえるように、又、カフェの他にも駄菓子を置くなど、雰囲気づくりも大切にしました。
ここには、多くの方がカフェに足を運んでくださり、沢山の会話と笑顔が広がりました。
そして、たくさんの方々の支援やお手伝いのもと
活動を行うことができました。
北海道から沖縄まで、約45㌧を超える支援物資が、薗小学校避難所へ届けられました。
それは、茅野が発信するTwitter、instagramにより沢山の人の目に触れたことが大きなきっかけでした。
そして、横浜、東京、沖縄、大阪、富山、熊本、鹿児島、佐賀、山梨、宮城、等、沢山の県の人たちが炊き出しを手伝ってくれました。
私たちは、真備町で被災した人達や県内外の約50名のメンバーで構成されており、一人一人の想いを集結させその想いを紡いで活動しています。
これからも災害支援団ゴリラは、西日本豪雨での経験を活かし、緊急期の支援だけでなく、復興に向けての現地での様々な形のサポート、他団体との連携を含め、たくさんの勇気と元気と笑顔を届け続けていきます。